淡路島 鳴門タクシー ジャンボ(9人)あります。
目次
1、諭鶴羽神社
2、おのころ島神社
3、いざなぎ神宮
4、沼島
5、先山
6、東山寺
7、常隆寺
8、淳仁天皇陵
9、岩上神社
10、岩樟神社
11、石屋神社
12、伊勢久留麻神社
13、舟木石上神社
14、産宮神社
15、絵島
16、岩戸神社
諭鶴羽山 11月23日山開き。
ご祭神
「国生み神話」で知られた、イザナギ・イザナミの尊さまを主神にその御子
お二人の三柱を御祭神としています。
神代の昔、夫のイザナギの尊さまと共に、初めて夫婦の道をひらき 日本の国土を造り、多くの神々を生んだ母なる神様です。
古来、五穀豊穣、縁結び、安産、夫婦和合の神様として崇敬され、源平の昔から神社の灯りは灯台がわり、海陸交通安全の神様としても知られる。淡路島最大のパワースポット。
その起源はおよそ二千年の昔、開花天皇の時代にまでさかのぼる。
平安時代になり山岳信仰・修験道が盛んになるにつれ、当山も神仏習合体として多いに繁盛。山上一帯に二十八有余の堂宇を誇り、熊野権現と並んで修験の霊場として栄え、そのご神威は京の貴族社会まで知られた。
だれでも参加出来る行事案内
※ 新嘗祭・山開き登山 (11月23日)
本格的な登山シーズンを迎えるにあたり、修験の道である諭鶴羽古道の清掃、整備を行い、
その 後、十一月下旬頃を選んで山開き登山を行います。
諭鶴羽山の登山シーズンは、秋から冬、そして春にかけて。
登山シーズンの安全祈願祭と新嘗祭の神事が行われます。
※ 初詣でもち焼き (お正月3が日)
淡路ではお正月、高山参りの風習があり、山上でお餅を焼いて食べると一年間 無病息災の言い伝えがあります。
諭鶴羽山はその代表格。境内はお餅を焼く参拝者でいっぱいになります。
※ 3月下旬に大護摩供法要、4月第2土曜に春の例大祭、11月下旬に 山開き登山。諭鶴羽山(608m)の登山シーズンは秋から春にかけてです。
この日、新嘗祭(にいなめさい・新たに収穫した穀物・酒などを祀り感謝する儀式)の神事が行われます。
※ 歩いての登山は神代ゆずるはダムから3キロ。灘 黒岩から2キロ
程度。シーズンには全国から3000人以上が登ります。
諭鶴羽神社の社伝
およそ2,000年前の開化天皇のころ、イザナギ・イザナミの2神が鶴の羽に
乗り高天原に遊びに出られた。狩人がこの鶴を見て矢を放ったところ
羽に当たり傷を負った鶴は東の峰へ飛んで隠れた。
狩人は跡を追って頂上へ来るとカヤの大木があり、その枝に日光・月光が表れ
『我らはイザナギ・イザナミである。国家安全・五穀豊穣を守る為、この山に
留まるなり。これよりは諭鶴羽大権現と号す』と唱えられた。
狩人は涙を流し前非を悔い、その罪を謝す。そして弓矢を捨て
その地を清め、神社を建てご神体を勧請した。
狩人は権現の社を受領して庄司大夫と名乗り一生神に仕えたと言う。
諭鶴羽神社 〒656-0551兵庫県南あわじ市灘黒岩472
℡ 0799-56-0315携帯 090-3990-5334 ルス電で後ほど返事あり。
2 おのころ島神社
ご祭神 伊弉諾尊(イザナギ)伊弉冊尊(イザナミ)
健康長寿・良縁堅固・夫婦和合・安産の塩砂
古代は、入江の中にあり、国生みの聖地と伝えられる丘にあった。古くからおのころ島と親しまれ、敬われてきた。
古事記・日本書紀によれば、神代の昔、国土創生の時にこの二神は、天の浮橋(虹)にお立ちになり、矛を持って海原をかき回すと、矛より滴る潮が、自ずと凝り固まって島となる。これが自凝島(オノコロジマ)である。
二神はこの島に降り立たれ、八尋殿(やひろどの・大きな殿舎)を建て、まず淡路島を造り、次々と大八洲(おおやしま・日本の別名)を造られた。となっている。また、古書に応神天皇・淳仁天皇が行幸されたと伝えられている。
※ せきれい石
つがいのせきれい(鳥)がこの石に止まり、
ご祭神の二神に『交(とつぎ)の道』を教えたとされている。
※ 天の浮橋(虹のこと)遺跡 おのころ神社の西 約300mにあり。二神が浮橋(虹)をつたって、おのころ島に降りて来たと伝えられている。
※ 葦原国(あしはらのくに・日本の別名)遺跡 おのころ神社の西約 500mにあり国常立神(くにのとこだちのみこと・国土の神様)をお祀りしている。
※ 神社で塩砂を頂くと安産と伝えられている。
おのころ神社 社務所 〒656-0423 兵庫県南あわじ市榎列下幡多415
Tel 0799-42-5320 参拝自由 社務所 午前9時~午後5時
ご祭神 伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)
『古事記』・『日本書紀』には、国生み・神生みを終えた伊弉諾尊統治の大権を天照皇大神(あまてらすおおみかみ)にゆずり、最初に造った淡路島のこの地に幽宮(かくれのみや、最後の住まい)を構え鎮まられた。と記され、古来より『淡路一の宮』として、深く敬われている
最初は伊弉諾尊(イザナギ)のみ祀っていたが、後に妻の伊弉冊尊(イザナミ)も合わせて祀る事となった。江戸時代には阿波藩主(徳島県)の蜂須賀家も当社を深く敬い、多いに栄えて今に至る。
その起源からも夫婦円満・安産・子授け・縁結びの神として広く信仰されている。交通安全の祈願も有名。淡路島有数のパワースポット。
境内には樹齢900年と推定される天然記念物の『夫婦の大楠』
(もともと2本の楠がいつしか根を合わせ1本に成長した。)
夫婦和合・子孫繁栄のしるし や放生(ほうしょう)の神池
(命乞いに鯉・長寿や病気平癒に亀を放って祈願する)がある。
※ いざなぎ神宮 〒656-1521 兵庫県淡路市多賀740
Tel 0799-80-5001
4 沼 島(ぬしま)
おのころ神社
小高い山の上にある。急勾配のまっすぐな階段を上がると神社。山全体がおのころさんと呼ばれる神体山だ。天地創造の神。イザナミ・イザナギの二神を祀る。おのころ島とはこの島の説もある。
梶原五輪塔 梶原景時・かじはらかげとき・(源頼朝に重用されたが頼朝の死後失脚し追放された)の墓・松香石という特殊な石で作られている。鎌倉前期の作。
沼島庭園 (伊藤邸の庭)室町時代10代将軍 足利義植により造られた。沼島の特徴である緑色片岩を用い、地形を生かして作庭されている。
上立神岩 (かみたてがみいわ) 南あわじ市沼島(ぬしま)
沼島の海岸には奇岩や岩礁が多く見られるが、中でもそびえ立つ高さ
30mの上立神岩は圧巻。竜宮の表門と呼ばれる神秘的な岩である。
この岩は、イザナギとイザナミがオノコロ島に降り立ち、巨大な柱の周囲をまわって結ばれた「天の御柱(あめのみはしら)」とも言われる。※沼島はおのころ島との説がある
上立神岩の中央部がハート型に見え恋愛成就のシンボルとしても有名。
カップルも多数訪れています。
神宮寺
真言宗の寺院。平安中期の開基。沼島の城主梶原氏の菩提寺。
厨子(ずし)・金泥経(きんでいきょう)・曼荼羅(まんだら)などの宝物あり。
本堂裏の石庭は昭和の名造園師 重森三玲(しげもりみれい)の作。
住職は沼島の歴史に大変造詣が深い。☎ 0799-57-0029
沼島八幡神社
1436年、室町中期、沼島の城主 梶原氏が京都 岩清水八幡宮の分霊
を勧請し創建。海上安全の武神。
神社からの景色はすばらしい。
以前は沼島千軒金の島といわれ多いに栄えた。
気候は温暖。イザナギ神話など今に伝える残された秘境。
周辺海域は高級魚の好漁場
沼島 神宮寺 庭園 (築山式枯山水)
沼島 神宮寺庭園
この庭園は寺院が現在の地に整備された江戸時代初期の万治年間(1658~1661)に造られたと考えられています。八幡神社から連なる裏山の急斜面の丘陵を利用して構成された築山式枯山水庭園です。沼島特有の結晶片岩を「人」字形に組み合わせて多用する技法は、迫力のある印象で、鑑賞上の効果に加え、独特の高い技術力もうかがえます。昭和の名作庭家 重盛三玲が手を加えたとされる。
兵庫県指定重要文化財
金泥経 沼島 神宮寺蔵
金泥経 紺紙金銀字入大乗論 2巻
「入大乗論」はインドの堅意菩薩の作で中国北京の道泰等が437
~439年の頃に訳出した大乗仏教の簡単な概説書である。
奥州藤原氏の初代・清衡の発願により書写された一切経、もと五千
三百巻余りのうちの二巻と考えられる。これらは、大治元年(1126)に
中尊寺建立供養に際して奉納され、中尊寺経の名でよく知られ、その
多くは桃山時代に高野山に移されたが、神宮寺への伝来については
詳しいことはわからない。
平安時代、宮廷貴族らが写経の功徳や作善と同時にその料紙装飾
の華美を競い高い芸術性を備える装飾経が盛ん に製作された。
本経巻は上下巻とも表紙は華麗な宝相華唐草。見返しには釈迦の霊
鷲山での説法図がそれぞれ金銀泥で描かれている。
沼島 神宮寺蔵
尊勝法華曼荼羅 県指定文化財 沼島 神宮寺蔵
尊勝法華曼荼羅 神宮寺蔵 県指定文化財
画面を2等分し上に尊勝曼荼羅.下に法華曼荼羅を画く。
この曼荼羅は力強い筆致、調和のとれた色彩、精緻な載金文など引き締まった画面を構成となっている。
各尊を種子で表す種子曼荼羅であり
鎌倉前期の秀作である。
沼島 八角井戸
八角井戸
この川は王川といい 島人達の生活用水として今も大事に使用されている
八角の形は中国の占いでは吉相を示すとされ沼島では有名な井戸です。
◎ 沼島では井戸の事を川と呼ぶ。
旧王寺庭園(伊藤家の庭園・沼島庭園とも呼ばれる)
旧大寺庭園 (伊藤家庭園・沼島庭園)南あわじ市 沼島
室町時代に戦乱で荒れた京の都を離れ沼島へ逃れてきた
足利十代将軍 義植が作ったと伝えられる。
王の森を背景に力強い石組みが施された庭は山口県にある
雪舟の庭とよく似ている。県下で最古の室町時代の庭。
梶原五輪塔
梶原五輪塔
五輪塔は源頼朝の重臣梶原景時の墓とされる。
頼朝没後、鎌倉幕府を追放され、沼島へ来て島主となり沼島水軍を支配した梶原一族の祖として勢力を持った。
沼島 鞘形褶曲(さやがたしゅうきょく)の岩石
平成10年、沼島で発見された、太古の地殻変動を示す岩
1億年前に出来た地球の「しわ」として今も残っている珍しい岩石で、引き潮の時にしか見ることができないこの奇岩は、同心円の鞘型の褶曲構造となっており、地殻内部の動きが分かる貴重な資料となっています。この沼島の岩石以外ではフランスで1ケ所発見されているだけです。展示場所は沼島ターミナルセンター待合室です。
クリックすると拡大します。
イザナギ・イザナミの両尊が日本国を創った時、最初に出来た山を先山と名づけた。
その形から淡路富士とも呼ばれる。
イザナミ・イザナギが祀られた祠は本堂の前、左側にあり。
この二神から縁結びでも知られる。
約1,100年前、平安時代の中期、醍醐天皇の御世。播磨の深山に“いざおう”と呼ばれた『大いのしし』がいました。いざおうは田畑を荒らし人々が困っていたので藤原豊広こと狩人 忠太がこの猪を矢で射た。猪は傷を負いながらも播磨灘を渡り、ついに当山に登りました。忠太が追って行くと、頂上付近の大杉の洞の中に千手観音菩薩が煌々とした 明かりの中に現れました。
驚いた忠太は見ると観音菩薩の胸に矢が 刺さっていました。忠太はこれを見て多いに懺悔し、発心して名を寂念と改め、醍醐天皇にお願いをして七堂伽藍を建て、ご本尊の千手観音を安置しお祀りしました。 その後、ご本尊・観音様を多くの人々が信仰し今に至っています。
先山は淡路島十三仏の一番霊場であり、淡路信仰界の中心霊地であります。
高野山真言宗の別格本山。
本堂は江戸初期、阿波藩主、蜂須賀家政により再建
本尊:千手千眼観音菩薩、脇仏:不動明王・毘沙門天
不動明王は淡路島十三仏の一番札所のご本尊。
ここより下って10分のところに岩戸神社がある。⑯参照
団子ころがし:淡路独特の風習。死者の五七日忌(35日)に団子またはおにぎりを山上から谷に向かって投げる。これは死者の行く手に待ち構える鬼をそれらの供物で逸らせ、死後の旅路を手助けしようとするもので、施餓鬼法要とも言われる。当山でも行われている。
※ 秋の紅葉は見ものです。(11月中旬・多くはない)
※ 山上茶屋の“丁稚羊羹”は美味で大変好評。防腐剤無し
手作りなので予約したほうが良い 西茶屋 ☎0799-22-3295
※ 土、日、祝日は山上の駐車場が狭いので混雑。平日をお勧めします。
先 山 千光寺 兵庫県洲本市上内膳2132
☎0799-22-0281(ナビで出ます。道は舗装だが狭い)
先 山 千光寺の本堂
千山 千光寺の鐘楼
6 東 山 寺
約1200年前、平安時代初期。嵯峨天皇の御世に弘法大師が、「いざなぎ神宮の鎮護と庶民信仰の中心」として開山された。
鎌倉時代にはこの地方の本山として末寺17、僧坊36を数えその勢威は遠く京の都まで知られた。
現在の本堂、山門は室町時代、淡路守護職の 細川頼春が寄進されたもので、淡路最古の木造建築物。
本尊は千手観音で一木三体(1つの木から同時に3体の仏像を作る)の名作。他の二体は淡路市の常隆寺・洲本市の先山千光寺に安置されています。ほかにも国指定の薬師如来と十二神将もお祀りしています
秋(11月中旬)は紅葉が見事(多くはない)。20台の駐車場。尼寺だがが淡路では有名。途中から道が狭い。
まだあまり観光化はされてない穴場スポット。静かな雰囲気。
東山寺 〒656-2221 淡路市長沢1389 tel:0799-64-1185
淡路三山に数えられる北淡路の高山(常隆寺山)の名刹。
奈良時代の名僧行基が当山の頂付近の栗の大木から光明がさしているを見てその栗を倒してそれから観音菩薩を作り堂に納めた。
奈良時代後期、政争から廃位となり淡路に流された淳仁天皇が父の為にそこに寺を建立。住僧、常隆法師の名を取って常隆寺とした。
後に桓武天皇の弟、早良(さわら)親王が政争で淡路へ流される途中、河内国(守口市・高瀬神社付近)で憤死した。その弟の霊を鎮める為に増築。勅願寺(天皇の発願した寺)となる。
本尊の観音菩薩は行基の作。頂上は伊勢の森と呼ばれ展望はすばらしい。
山腹はシイ、スギの原生林で覆われ、境内のスダジイ、アカガシ、モチ、ヤマボウシの群落は見事。心が落ち着く雰囲気。穴場スポット。
5月下旬~7月上旬:アジサイ、7月~9月:サルスベリ、秋の紅葉など花の寺としても有名。野鳥のさえずりを聞きながらハイキングも楽しい。
常隆寺 兵庫県淡路市久野野154 Tel:0799-82-0451
淳仁天皇(733年~765年)奈良時代後期、孝兼天皇(女帝)の次47代天皇。天武天皇の孫(大炊王・おおいおう)と呼ばれた。在位6年
御陵は東西80m南北300mの紡錘形。東側に池(天皇池)がある。
先帝 孝兼天皇と天皇の病気平癒の祈祷を通じて親しくなった僧 弓削道鏡との政争に破れ、淡路島に親王「淡路の公」として流され、南あわじ市志知中島大屋所 に住まわれた。しかしその後もその人柄を慕う人が多く訪れ影響力を持っていた。大変人格識見ともに優れた天皇であった伝えれれている。
これに上皇(孝兼天皇)は警戒感を持ち警備の者(国主・佐伯助)に厳しい管理を命じた。
流されて1年後、若干32歳で病死のことだが、異変を察知し禁状態から脱出しようとして失敗。 捕らえられて翌日処刑され、ご遺体はここの近く志知大屋所の天皇塚に埋葬された・・との伝えがある非運の天皇。志知大屋所の天皇塚の隣に淳仁天皇をお祀りした大炊(おおい)神社がある。
孝兼天皇は一旦退位し上皇となるも復位し称徳天皇となる。
称徳天皇と親密な弓削道鏡はさらに権力を増し法王となり、ついには天皇の位まで求めたが和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれる。
称徳天皇没後、藤原百川(ももかわ)らにより失脚。下野(しもつけ・栃木県)の薬師寺に流されそこで没す。
賀集の天皇陵はその後、光仁天皇が都に異変が多く起きるのは大炊王のたたり(怨霊信仰)と思い賀集の古墳の跡に立派な御稜を造営し手厚く供養した。
その御稜の維持管理の為に近くに作られた僧坊が万福寺の起源とされる。
称徳天皇の意向により長らく天皇に列せられなかったが、明治天皇により天皇に加えられた。
その淳仁天皇の御霊をお祀りしてあるのが京都の白峰神宮(しらみねじんぐう)堀川今出川東入る 。白峰神宮は、明治になって創建されたもので、淳仁天皇の霊は、明治天皇により、淡路島から御霊をお迎えして、ここ白峰神宮にお祀りされている。
また皇居でも、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
淳仁天皇が亡き父、舎人(とねり)親王の為建立したのが北淡路の名刹常隆寺と伝えられる。
母 当麻 真人山背(たいま まひと やましろ)も一緒に流された。
没後近くの当麻陵・(800m南)に眠る。
これらの陵を管理するために出来た僧坊が近くにある万福寺の起源と伝えられる。
南あわじ市賀集天皇の森
当麻(たいま)夫人陵 (淳仁天皇の母)
当麻夫人陵(たいま)
淳仁天皇の母、当麻真人山背(たいままひとやましろ)の陵。
淳仁天皇と一緒に流され当地で没し、亡き天皇の近く(800m南)に眠る。
南あわじ市筒井 当麻夫人陵
大炊(おおい)神社と淳仁天皇塚
淳仁天皇塚 住民が今も霜よけの「こも」を編み、埋葬場所と伝えられる杉の木の根本にかけ、天皇の霊をお慰めしている。天皇塚の隣に、淳仁天皇をお祀りした大炊(おおい)神社がある。
南あわじ市志知大屋所
大炊(おおい)神社 祭神は淳仁天皇
淳仁天皇塚 (墓所)
石碑
大炊神社(おおい)淳仁天皇(大炊王) がご祭神
764年 孝謙上皇・弓削道鏡らとの政争に破れ廃帝となる。(在位6年)
親王の位を賜り淡路の公として母とともに同年10月淡路に流され
厳しい管理下におかれた。
翌年765年10月 22日逃亡を計って捕えられ翌日に変死したが若干32歳であった。
亡がらはここの天皇塚に埋葬された。
のち天皇塚のとなりに淳仁天皇をお祀りした大炊神社が造られる。
住民は今も霜除けのコモを編み埋葬場所にかけ、天皇の霊を慰めている。
賀集の同天皇陵はその後、光仁天皇が都に異変が多く起きるのは大炊王のたたり(怨霊信仰)と思い賀集の古墳の跡に立派な御稜を造営し手厚く供養した。
その御稜の管理の為に近くに作られた僧坊が万福寺の起源とされる。
大炊神社 南あわじ市志知中島大屋所
9.岩上神社 ここはオススメ !!
9 岩上神社の神籬岩 (ひろもぎいわ)
一度は見てみたい!! 普段は無人
岩上神社は本殿・舞殿・拝殿からなり、淡路島を代表する巨石信仰の神社。
本殿横には神籬岩と呼ばれる卵型の巨石があります。 岩は高さ15m、周囲16mもある一枚岩で神が降臨する岩を意味します。古代の人々は万物に神が宿っているとし、岩や樹木、石などの自然に神を感じて祀っていました。岩上神社の神籬岩も神を招いて祭祀を行う神聖な巨石でした。付近からは平安時代の土器が発掘されており室町後期に創建された岩上神社よりも古いとされ古代から神石として祭祀されてきた事がわかります。社伝によれば1541年、奈良県の龍田神社の旧社殿を移築したと伝えられ里人からお岩さまと呼ばれ今も丁寧に祀られ守られています。
淡路市柳沢乙614 ☎0799-86-0355 普段は無人。 しめ縄は年の瀬に交換される。
巨石信仰
岩上神社
10 岩樟神社(いわくすじんじゃ)
イザナギの尊・イザナミの尊・とその子 蛭子(ヒルコ)の尊の三神を祀る。イザナギ・イザナミの両尊が天から降りて来て結婚。 蛭子(ヒルコ)の尊をお産みになったが4~5歳になっても自力で起き上がる事も、歩く事も出来なかった為、葦(あし)船に乗せて流し、西宮に漂着。そこで百太夫に見つけられ、仮宮殿(西宮恵比寿神社)に祀られ恵比寿神社のご神体となったとされる。
岩樟神社の前には漁業の神として信仰された恵比寿神社がある。神社の奥には高さ1.8m奥行き8mの洞窟がある。これはイザナギの尊の幽宮(かくれのみや・鎮まれれた宮)とも言われる。淡路市岩屋ポートターミナル出てすぐ
国常立尊(くにのとこたちのミコト・日本の最初の神様)・イザナギの尊・イザナミの尊の3神を祀る。 元々は三対山(城山)に鎮座していた。淡路では最も古い神社。
500年ほど前(室町時代末期)、中国地方の大名(大内義興)が京都に上がろうとした時に岩屋に軍を進めて見晴らしのいい神社の地に城を築く為、今の場所へ移転。一時さびれたが、1610年、播磨藩主池田輝政により再建。 方位と天文学を駆使した日本唯一の神社。十二支をあしらった天井の方位磁石が有名。(淡路にしかない) 俳優の渡哲也さんも当地出身なので寄進している。
淡路市岩屋799 Tel:0799-86-0355
鳥居をくぐると、広い駐車場。奥に境内があり正面に拝殿。後方に本殿がある。
NHK『知れれざる古代~謎の北緯34度32分を行く』で紹介され俄然全国的に有名になる。同番組で西のお伊勢さんとして紹介された。奈良の箸墓古墳を中心に伊勢神宮と東西対称に位置する。脚光をあびた『太陽の道』とされる北緯34度32分上に伊勢神島、伊勢神宮、伊勢斎宮跡、三輪山、室生寺、長谷寺、二上神社、石上神社などと並んであり、古代の太陽信仰の現われと考えられる。ご祭神は天照大神の別名である大日霊貴尊(おおひるめのむちのかみ)。来馬大明神とも言う。第30代 敏達天皇(527~585年)の頃、伊勢国 久留真神社より勧請し創建されたと伝わる。
※「太陽の道」春分と秋分の日に太陽が通る道のこと。淡路市久留麻2033-2 久留麻バス停前
お問合せ 松帆神社 淡路市久留麻257 tel:0799-74-2258
13 舟木石上神社 (ふなきいわがみじんじゃ)北緯34度32分の線上、「太陽の道」の一番西の端にある舟木磐座(いわくら)。
古代氏族の舟木氏の居住地を思わせる地名を持つ地域。東の伊勢市の神島から、西は淡路島のここ舟木磐座(いわくら)までの東西200キロメートルに渡り,東から順に、伊勢神島、斎宮跡(三重),室生寺、長谷寺、三輪山、箸墓(奈良)、大鳥神社(堺)、伊勢久留麻神社、舟木石上神社(淡路島)と並ぶ。
巨石は大きさは2~3m四角で狭い境内に転がり,小さな祠がある。 ここには古くから「日の神さま」を祀る信仰があり日の神信仰がのこの地にも伝わっていた。
※ いわくら(磐座)古代よりある巨岩信仰・古神道の一つ。大きな岩に神が宿るとする。
※ 太陽の道 春分と秋分の日に太陽が通る道のこと。 淡路市仁井舟木514
北淡震災記念公園の近く。普段は無人。
14 産宮(うぶのみや)神社
仁徳天皇の子で代18代 反正天皇(西暦406年即位)生誕の地に創建された神社。瑞井宮(みずいのみや)とも記される。反正天皇をご祭神とし、後に、天照大神も祀られる。淡路島は大和朝廷の御糧地として朝廷とも深い関わりがあった。特産の魚貝類や穀物を献上していた。当時このあたりから海辺にかけて広大な白砂と松原が広がり、鳥獣が多く棲んでいた。その為、朝廷の狩猟地とされ、淡路宮が置かれた。古事記・日本書紀には仁徳天皇が遊猟をした時に、お供された皇后がここで反正天皇をご出産。瑞井(みずい・泉)の水を産湯としたと記されている。倭文(ひとおり)川沿いある神社は当時の雰囲気を残しており、安産の神様として信仰されている。
南あわじ市松帆櫟田(いちだ) 114
15、絵島
淡路島にいくつかある『おのころ島』との説がある。約2千万年前の砂岩層が露出した小島。
昔から月の名所としても知られ、平家物語の月見の巻にも登場。平清盛が貿易拠点として大輪田の泊(神戸市兵庫区)を造る際、人柱となった清盛の小姓松王丸を祀ったとされる。
古来より、和歌を詠む名所としても知られ、その美しさは多くの人々を魅了する。一度は訪れてみたい景勝地。 西行法師の歌もある。
淡路市岩屋港岩屋ポートビル。徒歩1分。岩屋観光案内所 ☎ 0799-72-3420
16、岩戸神社
国生み神話で最初にできた山が先山。
この山頂近くにある社でご神体はこの巨石。
天照大神を祀り太陽信仰と巨石信仰が合一されている。淡路でも舟木石上神社や岩上神社など同様のものがあり。
山頂の東茶屋から下りしばらくすると三叉路、それを右へ行くとすぐ丸太の鳥居があり、100mほどで右手に巨石が見える。
徒歩10分だが足元が悪いので茶屋で杖を借り、靴はズックが良い。巨石の前には小さな祠があるが雨天時は避けること。マニア向け。千山千光寺により管理されている。